2007/03
シーボルトと弟子たち君川 治



 日蘭修好400年を記念して東京大学総合研究博物館において「シーボルトの21世紀展」が開催された。シーボルトの収集した膨大な植物標本が展示されたが、これは収集した資料のほんの一部だそうだ。彼の博識に惹かれて門弟たちが協力した証拠ある。
 オランダ商館付医官はみな通詞や蘭学者に医学や洋学を教えて大きな影響を与えているが、シーボルトはそれらの中でも特に目立った存在である。シーボルトが長崎にいたのは1823年8月から29年12月まで約6年間である。最後の1年間はシーボルト事件のために活動ができなかったが、多くの日本人が彼の教えを受け、日本の科学技術発展に与えた影響は非常に大きい。
 シーボルトはドイツの生まれで、一家はベルリン大学やヴェルツブルグ大学医学部教授が多くいる名門である。彼もヴェルツブルグ大学医学部を卒業した医者であった。大学では医学のほか動物学・植物学・地理学・民俗学など幅広く学ぶ。優秀な医師であり博識なシーボルトは日本の地理、風俗など幅広く情報収集する調査官の使命を帯びて、27歳の時に長崎に着任した。
 長崎のシーボルト記念館の入口には軍医姿の若きシーボルトの像がある。記念館の展示室にはシーボルトが医師として使用した外科器具、聴診器、薬籠、処方箋などの医療器具、礼服、剣、ナイフ・フォークなどの生活用品、優秀な成績を修めた門下生・高良斎への医師免状、門下生への直筆の課題などの展示品がある。優秀な門下生であった高野長英自筆のオランダ語文章は、印刷文字のように美しいのに驚かされた。
 弟子達への課題には、「日本の男女出生比率は? ヨーロッパでは男20、女21」、「1年に100人当たり何人死亡するか? ヨーロッパでは33人に1人」など統計的なアプローチなどが目に付いた。
 多くの門下生についての説明もある。江戸日本橋にお玉が池種痘所を開いた伊東玄朴(佐賀)、臨床外科の元祖と言われる戸塚静海(静岡)、植物学者で東大教授・最初の理学博士となる伊藤圭介(愛知)、塾頭となる高良斎(徳島)、シーボルトの娘楠本いねの面倒を見た二宮敬作(愛媛)、石井宗謙(岡山)、問題児となった高野長英(岩手)など、この他にも書ききれないほどの門下生が全国各地から集まっている。
 展示にはシーボルトの江戸参府の説明、シーボルトの植物採集活動、オランダ帰国後の日本研究活動、「お滝」と「いね」のその後の状況などの説明がある。シーボルトの帰国後、いねは医者になることを志し、最初は岡山の石井宗謙の下で産科を学び、後に宇和島の二宮敬作の下で内科を学んで長崎で医師開業をした。明治になって東京で産科医を開業し、宮内省御用係も勤めている。
 シーボルトは最初のうちは出島において診療と教育を行っていたが、その名声に患者や門弟が増えたので奉行所の許可を得て、蘭方医吉雄幸載や楢林宗建の塾に出前診療や出前講義に出るようになる。更に鳴滝に住宅を購入し、診療や門弟の教育を行ったので、全国各地からシーボルトに憧れて門弟が集まった。


筆者プロフィール
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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